世界の中心で、愛をさけぶ
ふと空いたしまった午後の時間で映画を見ることにした。何も考えないで見られる映画を探していて「スクールオブロック」が良いと思っていたが時間が合わない。見るつもりの無かった「世界の中心で愛をさけぶ」のオフィシャルサイトを見て、原作者が賛辞を送っているのを見てみてみようと思った。当初、原作はとても感動的な作品だったが、キャスティングなどを見て原作のイメージを崩す気がして見る気にならなかったんだ。結果は意外なほど泣けた。
ところどころ疑問があったわけではない、しかしそれは批判のための批判だろう。素晴らしかった。原作をスポイルすることなく、見事に話を膨らませていた。原作とは違った時代構成や、登場人物によって原作とは別の物語を作っているが、全体的な流れから感じるイメージは原作そのものだった。高校時代の亜紀と朔太郎は本当に良くできていた。前にこれほど涙した映画はグリーンマイルかな。本当に良かった。
私がこの映画を見て涙したのは、感動というよりむしろ共感だった。全く他人事ならない舞台構成に自分の過去を重ね合わせ、自分が朔太郎だったころに立ち返ってしまう。
苦しかっただろう、寂しかっただろう妹と、そしてかつての恋人に、何もしてあげられることなく、苦しみを何一つ分かち合うことなく、すごしてしまった。すべてを抱えたまま、一人先立ってしまった彼女たち。気持ちの整理などつける術も無い。心の傷は癒えただろうか、忘れただろうか、たとえ、それらを埋められたとしても、心にぽっかりと開いた喪失感という穴は、決して埋められることなく、事あるごとに当時に振り戻される。
映画の中で、「残されたものにできることは後片付けだけだ」と重爺(山崎努)が言っていた。そんな彼も50年間未練を背負って生きている。私は残されたものできることは、後片付けではなく、その傷を、その穴を引きずって生きることだと思う。それがせめてもの罪滅ぼしであり、自らへの慰めでもある。大切な人を失った前と後では同じ人間ではいられない。四六時中、新たな喪失への不安を抱きながら生きなければならない。しかしそれさえも、神が与えた残されたものへの試練と思える。
-悦子へ、そして麗子へ
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